test 歴史年表

年度

日付
新暦

出来事
金融・経済

メモ


749

平安時代

国産の金

陸奥(宮城県)で発見された砂金で金が精製され、東大寺の大仏に使用された。(初の国産の金)

958

平安時代

銅銭
インフレ

朝廷は銅銭を鋳造し流通させたが(乾元大宝など)その原価よりも高額な価格を銅銭に設定し、贋金なども乱発されたために貨幣の価値が下がりインフレが発生、朝廷は貨幣の鋳造を中止し民間は物々交換へ後戻りする。当時中国では紙幣が利用され銭が不必要となっていたことから「宋銭」が大量に日本に流入し利用される事となった。朝廷は宋銭の使用禁止令を度々出した。

1602

江戸時代?

世界初近代
的株式会社

オランダ東インド会社はその株主を有限責任とし、出資額以上には失わないという性質によって、その株は盛んに取引されたのです。K92

1914

1914,0728

1918,1111

第一次世界大戦ああああ

“第一次世界大戦が勃発すると、英仏を中心とする国々は20億ドルほどの外国債をニューヨーク市場で募集しました。これはアメリカが債務国から債権国へと変貌するきっかけとなりました。国際金融の中心地ロンドン→ニューヨーク。K159

戦費調達のため紙幣が増発される、金本位制度は停止され金の輸出を停止させる。 
戦費がかさむことから通貨が増発され各国政府は金本位制を一時的に中断する。戦後は各国、金本位制に復帰する。

“ドイツの戦費を公債残高で見ると、戦前50億マルクに対して、戦後は1565億マルクに膨らみました。K162
ドイツは戦後約1万%のインフレとなる。

“戦後→ヴェルサイユ体制、ヴェルサイユ条約に臨んだウィルソン大統領はモルガン商会の人材をスタッフとして多く連れていきました、投資銀行は政治家に対して助言するような立場になっていました。K161

年度

日付
新暦

出来事
金融・経済

メモ

年度日付
新暦
出来事
金融・経済
メモ
※1602年のセルに「折り返し禁止」を設定しセル巾を確定させている
749奈良時代国産の金陸奥(宮城県)で発見された砂金で金が精製され、東大寺の大仏に使用された。(初の国産の金)
958平安時代銅銭
インフレ
朝廷は銅銭を鋳造し流通させたが(乾元大宝など)その原価よりも高額な価格を銅銭に設定し、贋金なども乱発されたために貨幣の価値が下がりインフレが発生、朝廷は貨幣の鋳造を中止し民間は物々交換へ後戻りする。当時中国では紙幣が利用され銭が不必要となっていたことから「宋銭」が大量に日本に流入し利用される事となった。朝廷は宋銭の使用禁止令を度々出した。
1602世界初近代
的株式会社
オランダ東インド会社はその株主を有限責任とし、出資額以上には失わないという性質によって、その株は盛んに取引されたのです。K92
17831783

1806
小ピット
英国首相に
ウィリアム・ピットが24歳で英国首相に。アダム・スミスの「自由主義」経済政策をとり、絶頂期のイギリスを現出させた。
1803“「ナポレオン・仏」は英との戦争の資金調達のためルイジアナを米に売却、米はその購入代金を債券発行によってまかなったが、その債権の売却を行ったのは英のベアリング商会であった。N49
1841江戸時代天保の改革“水野忠邦による改革、例えば豆腐の売値をさげるよう命令したが商人たちは豆腐の大きさを小さくして対処した。商人には命令できるけれども、経済には命令できない、それが水野の愚かさです。それに対して100年前の田沼意次は経済がわかっていた。(倉山)
1844英が金本位
制度採用
“これにならいヨーロッパ各国は金本位制度を次々と導入した。N33
1853
江戸時代
開国
インフレ
“幕末にきちんと交換レートを決めておかなかったので、日本の金が大量に海外に流出してしまった O33
日本の開国以降、外国人は日本と貿易をはじめたが外国人は日本に来て金と銀を両替するだけで濡れ手に泡の儲けが出た。日本から大量の金が流出している事に気が付いた幕府は小判への金の含有量を減らす対策 → 通貨価値の下落 → インフレ 庶民や下級武士の生活が困窮する事となった。
1882日本銀行
設立
政府は西南戦争戦費調達などの必要から政府紙幣を乱発したが、偽札などが多く信用は無く、幕末からのインフレは収まる事がなかった。通貨価値安定の必要から日本銀行が設立され「円」が定められる。
1886南ア
金山発見
“南アフリカで大規模な金山が発見され、世の中に出回る金の量が増え始めた(金本位制度)N35
1871新貨条例欧米列強へ追いつく事などを目的として「大隈重信・佐賀」は10進法の貨幣制度、硬貨を円形とする事なおどを建白し制度化された。
1872
明治5
日本発の
鉄道
新橋~横浜 ”西洋文明など学ぶ必要はない、という偏見を取り去るため西洋の産物を見せる必要があったのではないか。その甲斐あって一時は民営鉄道が官営をしのぐ勢いであった、しかし軍事的な観点から政府が「鉄道国有法」を作り民営鉄道各社を買収、国有化した。O146
1897金本位制
採用
「松方正義・薩摩」の生涯の念願は金本位制を確立する事であった。伊藤と対立した松方は大隈と連携した。しかし金準備高の不足を理由に、金本位制は時期尚早と福沢諭吉、渋沢栄一らは反対した。後年渋沢は「松方には先見の明があった」と述懐している O75

“欧米列強に日本の紙幣を相応の価値のあるものと認めさせるためには、額面金額に見合う貴金属といつでも交換する体制を整えておく必要がある O33
日清戦争の賠償金を元に金本位制度をとり、日本の物価はようやく安定する事となった。
“露と日本は同じ年に金本位制を採用、これは先進国の証であり、国際資本市場で資金調達するための基本条件でした。K156 ”この当時金本位制を採用していない国は為替が不安定なために外国からの資金調達は困難であった N36

明治政府は「金1.5g=1円」と決定、金1gで計算すると「金1g=0.67円」
現在の金の単価「金1g=15000円」と単純に比較すると約2万2千倍
1900GDP“当時のロシアのGDPと人口は日本の3倍の水準だった。国民1人あたりのGDPでは日露であまり差は無かった。ロシアは欧州の中では後性が指摘されていた。貧しいロシアが恐れられていたのはその人口を背景にした陸軍兵力からであった。N30
19030224高橋是清
渡米
“日露戦争開戦前の国家予算は2億7000万円。TKJ519
“「高橋が公債発行に失敗すれば、国が滅びる」~中略~「井上馨・戦時財政顧問」は送別の乾杯に涙を流した。TK344
“陸軍の方では、交戦期間1年半、戦費見込み8億円と考えている。 TK347
“日清戦争全体での砲弾量を、南山の戦い1日で消費してしまった。TK398 砲弾が足りず、すぐにでも海外に発注せねばならない事態となった、松尾臣善(しげよし)日銀総裁は戦費を10億円と見積もり直した。
1000万ポンド = 1億円
“「戦争とは7割が財務、残りの3割が戦闘」阪谷芳郎大蔵次官の至言。TKJ376
1904日露戦争
戦費調達
“日露戦争では非常特別税という名のもとで増税があった。所得税・酒税・たばこの専売・塩の専売・相続税、国民の戦後の税負担はさらに重いものになっていく。TKJ416
“当時日露の国力差は1対10と言える、鋼鉄生産量などで比較はできる。日本の戦時公債は海外市場でも取り扱われてはいたが「1対10」ではギャンブルである。O85 戦費は17億円(当時)であろう、国家予算が3億5000万円だから5年分の金額である O93 ”日銀副総裁の「高橋是清」は公債募集のためイギリスに滞在していた、この公債を引き受けたのは、イギリス銀行団と国際ユダヤ資本である。O85 ”是清は、英国王妃が日本犬の狆を欲しがっていると依頼を受け、日銀が狆を英国王室まで送り届けた。TKJ402 ユダヤ人は「ポグロム、ロシアを中心に行われたユダヤ人の虐殺」を背景に、ロシア国内の同胞の命を守るため日本を援助したのだ。O88 ”アメリカのユダヤ資本、アメリカの銀行家「ヤコブ・シフ」が日本の公債(日本の国家予算1年分)を引き受けた。戦後明治天皇はシフを日本に招待し、外国の元首クラスにしか贈らない勲一等旭日大綬章(勲章)を親授している。O95
“英紙タイムズは「日本のローンは戦争のためならず、金本位制維持のためである。人殺しのためには使われないので投資家はどうか安心してほしい」と、日本にとって非常に好意的な書き方であった。TKJ394
“旧大蔵省の歴代の財務官はニューヨークのシフ家の墓に詣で、感謝の祈りを捧げるのが習いだったといわれている(二村宮國) 日本の公債に対して、日本による借金の返済が終わったのは1986年であった。
1905日露
講和条約
ポーツマス条約とも。日本は露から賠償金を獲得できなかった。開戦前の日本の内外の公債残高は約9800万円。
40年末には、内国債10億円、外国債12.5億円、一般会計歳出が6億なので国家予算の4倍にも相当した。TKJ519
1914
-1918
1914
0728

1918
1111
第一次
世界大戦
“第一次世界大戦が勃発すると、英仏を中心とする国々は20億ドルほどの外国債をニューヨーク市場で募集しました。これはアメリカが債務国から債権国へと変貌するきっかけとなりました。国際金融の中心地ロンドン→ニューヨーク。K159

戦費調達のため紙幣が増発される、金本位制度は停止され金の輸出を停止させる。 
戦費がかさむことから通貨が増発され各国政府は金本位制を一時的に中断する。戦後は各国、金本位制に復帰する。

“ドイツの戦費を公債残高で見ると、戦前50億マルクに対して、戦後は1565億マルクに膨らみました。K162
ドイツは戦後約1万%のインフレとなる。

“戦後→ヴェルサイユ体制、ヴェルサイユ条約に臨んだウィルソン大統領はモルガン商会の人材をスタッフとして多く連れていきました、投資銀行は政治家に対して助言するような立場になっていました。K161
19230901関東大震災金銭債務の支払いを一定期間猶予させる「モラトリアム」を発動。震災で破産した企業・個人に猶予をあたえ、銀行への取り付け騒ぎなどを抑制するため、現金の動きを凍結させる、山本権兵衛内閣の英断であった。O165
政府は日銀に「震災手形・不良債権」の買い取りを命じて民間企業を支援しようとした。国債の大量発行で不良債権を清算しようとしたが野党の「国民の税金で特定企業を救済するな」との反発に苛立った片岡蔵相は「ただいま東京渡辺銀行が破綻しました」と答弁。東京渡辺銀行は休業に追い込まれ、様々な銀行への取り付け騒ぎが発生した。O171
1925ラジオ放送開始NHKによるラジオ放送が東京エリアを対象としてはじまる。3年後全国放送に。
19297月浜口雄幸
内閣
「金解禁」を最重要課題として掲げる → 金本位制への復帰を意味する(国際協調路線)
「金輸出禁止 ←→ 金解禁」
19291024ウォール街
大暴落
世界恐慌
フーバー大統領(任期1929年3月4日~1933年3月4日)は大不況下の増税を敢行。
ケインズが恐慌をきっかけにその「主著」を記す。
多額の債務が投機的資産(株式)購入のために作られた、それを縮小するためにFRBは1929年に金融引き締め策をとった、それがバブル崩壊を招き、世界的な大恐慌が始まった。

ダウ工業株価指数が3年間で約10分の1にまで下落。チャップリンは失業者の多さへの不信から大暴落の前年に持株をすべて処分していた。K169 各国で金本位制が放棄され、経済の停滞に対処するために、各国中央銀行は通貨の乱発をする。景気浮揚のためには「輸出増」という事で自国商品を輸出増させるため国家間で「通貨の切り下げ競争」が起こる。米では銀行への取り付け騒ぎとなり銀行破産が急増した。

イギリス → ブロック経済へ
ドイツ → 国家社会主義へ(ヒトラー・ドイツ)
19301月金解禁
断行
(金解禁=金本位制=一流国家の証明)
「嵐のさなかに雨戸を開け放った」と批判された。O187
世界恐慌下で浜口内閣は金解禁を断行する → 日本経済は急速に悪化 → 浜口首相襲撃、死亡 → 金輸出禁止
1933グラス・ス
ティーガル法
(米)大恐慌の経験に基づく対処策として、銀行業と証券業の分離を決定。銀行持株会社による他の金融機関の所有を禁止。この銀証分離の法律がこの後のウォール街を支配し、日本の戦後の金融行政にも影響を及ぼすことになりました。K175 その教訓は忘れ去られ(1999)グラム・リーチ・ブライリー法によって撤廃されてしまいます。K176
19330419アメリカ金本位制停止ルーズベルト大統領がドルと金の兌換中止を発表。株式市場は底を打った。ルーズベルトは「銀行休業日を無期限延長」して取り付け騒ぎを抑えた。英国・日本も31年には金本位制からすでに離脱していた状況。
1937産金法日本政府は対外決済の金準備のため、金の自由販売を禁止し、金製品は政府に売り渡すべきものとされ、個人の金保有状況の調査まで行われた。
1933年、米国でも同様の措置がとられていた。
1941在米日本資産の凍結
1944ブレントン
ウッズ体制
米国ブレントンウッズホテルに連合国代表が集まり決められた、米国を中心に作られたメカニズム。IMFが設立される。
国家間決済が「金」で行われていた時代 → 米ドルを決済通貨とする、金本位制も残す「金ドル本位制」→ 国際決済が米ドルで行われるようになる。金の外貨準備としての価値だけが薄れていくこととなった。(ゲロロン)

NYに国連本部、ワシントンに世界銀行とIMFが置かれた。米は当時世界の金の3分の2を保有していた。世界のGDPの半分はアメリカ。当時唯一の核保有国で通常戦力でも最強の国だった。
1946預金封鎖
新円切替え
日本は敗戦により金本位制を完全に放棄。
生産能力が破壊され物資は少ないが、需要は旺盛となり物価が70倍に。政府は5円以上の紙幣を強制的に銀行に預けさせる。世の中のお金の量を減らす → インフレが抑制される
1950
-1953
0625
-0727
朝鮮戦争“GHQが経済を悪化させる政策を行ったにもかかわらず、朝鮮特需によって日本経済は復活しました。ドッジラインによる大不況、日本が社会主義化しかねないところを、特需が資本主義に戻してくれたと見ていいでしょう。(高橋)
1960-1964池田勇人
内閣
“池田勇人(元大蔵官僚)は日本を事実上、世界一豊かな国にしました、戦後最大の総理大臣です。KM158 ”減税と規制緩和で民間の活力を高め自由に商売できるようにする(国民の活力に任せる)自由主義経済の王道を推進しました。KM167 ”1ドル360円の為替をみとめさせた事。利上げをしたがる日銀を抑え込んだ事、日銀側から見ると、池田勇人は極悪人でしかありません。KM164 ”政府の官僚が経済の成長過程を読めるなら、自分が会社を作って儲ければよいのです。経済を計画できるなど、水野忠邦か社会主義者の発送です。KM167
1968スターリング協定スターリング協定によってポンドのドル価値の90%を保証する(?)
19710815ニクソン
ショック
これにより米の黄金の60年代は完全に終焉を迎えました。K217 西ドイツと日本からの輸入超過によって金がアメリカ国外に流出するため、ドルと金の兌換を停止すると発表したのです。K217(ブレントン・ウッズ体制の崩壊の始まり)
固定相場制から変動相場制へと移行した事で、強欲な市場の動きによって世界の金融や経済はより不安定なものとなり、米国の「金・ゴールド」に依存していた国々も、自国でその自国通貨価値を安定させる必要が生じてきた。ニクソンショック以降、各国の金準備は40年間減少していった。
ニクソンの宣言と同時にドルの価値は大幅に下落、大蔵省は東京為替市場を閉鎖する事なく、日本は価値の下落したドルを大量につかまされて大損した。日本の財政担当者はこのような失敗をする。O228
1972資本取引
自由化
(この年以前からの動き)メリルリンチへ外国証券会社初の証券業免許の付与、資本取引自由化は外国企業による日本企業の乗っ取りも可能にするため上場企業は安定株主工作・株式の持ち合いで対抗した。
1972田中角栄
内閣
“田中内閣時代の経済政策は、何一つ褒めることのできない無残な失敗。この時大蔵省(現財務省)には「自民党政治家を甘やかしたので日本の財政がとんでもないことになった」というトラウマができました。KM130
1973オイルショックOPECは原油価格を一気に4倍値上げした。原油の99%を輸入に頼っていた日本はニクソンショックとのダブルパンチで深刻な不況に突入する。O231
1973田中角栄
変動相場制
田中内閣が変動相場制に移行し、欧州各国がこれに追随した。この「敗戦国のくせに生意気」な行動で田中は失脚したのではないだろうか。O230
1980日本輸出
超過国へ
1955年、米に27社あったテレビメーカーは日本メーカーの輸出におされて、ゼニス社1社になってしまった。K225
1985プラザ合意“G5によるドル売り協調介入によって管理された状態でドル安・円高の状況を作り出し、日本の輸出超過を修正することが決められました。日本は日本にとって不利な政策を受け入れました。K226
“英米仏がソ連を潰すと結束している時に、日本と西ドイツが軍事努力をせずに経済大国2・3位なので、円高・マルク高を強いられました、時の大蔵大臣は「竹下登」です。当然円高不況になります。その時の大蔵省財務官、大場智満という方が立派で、金融緩和を進言、実施されると円高不況がふっとんで、一気にバブルとなり、中曽根政権は長期政権となりました。KM176
“米国は対日赤字解消のため円高ドル安を意図、1ドル235円→120円に。日本国内は円高不況となったため、政府は減税、日銀は金融緩和、これが土地投資となりバブル景気となる。O232
1989日銀三重野総裁マスコミが「平成の鬼平」と持ち上げた三重野総裁は利上げを断行。経世会の金丸信は「総裁の首をとってでも公定歩合を下げさせる」と、経済政策では金丸の言っていることのほうが正しかったのです。KM191
2008リーマン
ショック
グラス・スティーガル法が撤廃された、その結果の一つが、リーマン・ショックでした。K176
リーマンショックの前後から金を売却する国が減り、金を買う国が増え始めた「公的準備資産における金の保有量」
20111031過去最大の
円高
1ドル=75円を記録
2022ロシアの
ウクライナ侵攻
ロシアは開戦前の2021年までに外国に預けていた金を本国に送還して国内での保管に移行させた。

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